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【アラベスク】  第2章 真紅の若葉



第2節 丘の上の貴公子 [19]




 相手はそれを責めることもなく、ゆっくりと大股で美鶴の正面にまわり込む。
「全焼だと聞いたが、どうやら怪我はしてなさそうだねぇ」
 頭から足のつま先まで、まるで品定めでもするかのように視線を張り付かせる。銀縁のメガネがキラリと光り、その奥の瞳とぶつかる。
「冬と違って大して乾燥もしてないのに全焼なんて、よっぽど造りがヤワだったのか?」
 安アパートになんぞ住んだりするからそうなるのだ
 瞳の奥が、半分は(あざけ)るように揺れる。その視線に耐え切れず、逸らしてしまう。
「わかりません」
 そう答えるのが精一杯。そもそも、どんな答えを期待しているのかがわからない。答えなど、期待していないのかもしれない。
 あからさまに苛立つ美鶴が面白いのか、教頭の浜島(はまじま)は少し俯き加減でメガネを摺り上げる。
「まぁ こう言っちゃあなんだが、そんなボヤ火事ごときで灰になってしまうようなアパートに住むのは、どうかと思うね?」
 傍らから、クスクスと耳障りな笑い声。忍び笑いと言うのだろうが、わざと聞こえるように声を漏らしているとしか思えない。
「こちらとしても、生徒の家が火事で全焼だとあっては、対応も大変だからね」
 何をどう対応するのか?
 それに、ボヤ火事ではない
 そう叫ぼうとして口を開け、だが、結局は言えなかった。この男に何を言っても無駄。
 逆に放火の疑いがあるとでも伝えたなら、そんな物騒な場所に住まいを構える方が悪いなどと(なじ)られるのが関の山だ。
 言い返そうと構えながら言葉の出ない美鶴の態度に気を良くしたのか、浜島の舌は滑らかになる。
「まぁ、今はどこでどうしているのかわからないが、今後はもっと周囲に迷惑をかけない場所に住むことだね」
 君のせいでこちらは迷惑をしていると言わんばかりの口調で目を細めると、浜島は背を向けてその場を立ち去る。
 その姿に思わず唇を噛む美鶴の背中に、ポンッと一叩き。
 まったく気配すら感じていなかったので、まるで心臓が飛び出すのかと思うほど驚いた。
「何ビビッてんだよ?」
 驚かれて逆に驚いた聡が、さらに二・三度肩を叩く。
 途端に周囲から悲鳴の嵐。
「手、どけて」
「気にすんなよ」
「絡まれるのは私なの」
 威嚇すら込めた美鶴の視線に、ヘイヘイと手を引っ込める。
「浜島に何言われた?」
「別に、大したことじゃないわよ」
「嫌味? 気にすんなよ」
「気にしてないわよ」
「そうか? ブン殴ってやりたいって顔してたぜ」
「アンタじゃあるまいし」
 呆れたようなため息を吐いて、フッと視線を感じる。
 見ると、美鶴よりもやや小柄な少女を真ん中に、三人の女子生徒。
「あっ」
 真ん中の、前髪を左へ寄せてピンで留めた、ゆったりと巻かれたミディアムヘアーの少女が、小さく声を呟く。
 見覚えのある顔だ。
 美鶴はすばやく記憶を手繰(たぐ)り、思い当たる。
 先日校庭のド真ん中で、聡へ想いを寄せているらしい一年生に絡まれたとき、間に入ってきた少女。
 彼女は助けたつもりはないと言い、美鶴としても助けられたとは思っていない。だが、結果として彼女の存在が助け舟となった。
 長い睫毛の二重が、少し大きくなる。だがその視線は、美鶴へは向けられていない。
 ?
 視線を辿ろうとする美鶴の耳に、少女の左右からの声が届く。
「あら、金本先輩」
(ゆら)さんのお兄様。素敵ねぇ」
 お …兄様?
 視線の先に立つ聡は、だが少女の視線を外している。両手をズボンのポケットに突っ込み、天気でも気にするかのように窓へ視線を向ける。
 見ると、少女の方も何か言うつもりはないらしい。すでに視線を廊下の先へ向け、歩き出し、やがて美鶴や聡の横を通り過ぎている。
「素敵よねぇ」
 少女の右か左を歩いていた少女の、すこしうっとりとしたような声。だが、それに対する声は、冷たいと感じるほど、鋭い。
「そうかしら?」
 振り返る先で、巻かれた髪が揺れる。それは、美鶴を冷ややかに見返しているようで、あまり心地の良いものではない。
 チラリと横へ視線を流すと聡が、こちらもやや冷めた視線を、その背後へ送ったところ。
「知り合い?」
「別に」
「お兄様って、何?」
「お兄様はお兄様だよ」
「アンタのことよね?」
「そうですね」
「姉妹いたっけ?」
「親父の連れ子」
 ふーんと、すでに遠ざかってしまった少女の背中を見つめる。
「妹?」
「です」
「可愛い子ねぇ」
「マジって言ってるのか?」
「私はいつも大真面目です」
「じゃあ、可愛いの基準が俺と違うんだな」
 明らかに苛立ちを募らせている聡に、美鶴の心は(わら)った。
「苦手?」
「あっちが嫌ってる」
「なんで?」
「知りたきゃ本人に聞け」
 別に聞いてまで知りたいとは思わない。
 ただ冷ややかな一瞥のみをくれてやる。そんな美鶴へ、聡も瞳を細める。
「お前こそ、知ってたような顔だったな」
 朝の陽射しが差し込み、首元で束ねられた黒髪が艶やぐ。
 はっきりとした強い眉の下で、小さいが黒く濃い瞳が差すようにピタリと美鶴を捉える。
 ひきしまった顎のラインが動き、形の良い唇が微かに震えた。だが、開きはしない。
 鋭く射抜かれて、美鶴は居心地が悪い。
 先ほどの、苛立つ聡を横目に感じた優越感が、色あせるように消えていく。
「別に、知らないわよ」
 本当のことなのに言い訳じみて聞こえる。
 案の定、聡は納得しない。
「ウソだろ。知ってるよな?」
「知らないわよ」
 どうやら、納得のいく答えを導き出すまで付き纏う気でいるらしい相手。どう突き放す?
 厄介だな
 そう舌を打った時だった。
「おーいっ」
 廊下の端で野太い声。
「大迫っ 早く来い。俺だって忙しいんだっ」
 思わぬ助け舟。
「じゃあね」
 軽く手を振って勝ち誇ったような笑みで相手を見上げ、美鶴は小走りに阿部の後を追った。
 口を軽くへの字に曲げて、やれやれと背中を見送る。
 その肩に、ポンッと手が乗った。
「―――――っ!」
「なんだよっ そんなに驚くことないだろう」
 相手は慌てて肩から手を退ける。そうして、聡の視線が凝視した先を見やりながら、口元を吊り上げる。
「相変わらずのご執心だな。見てるこっちが恥ずかしくなるぜ」
「なんとでも言え」
 驚かされたのが不愉快なのか、憮然とした態度でその場を去ろうとする聡の腕を、相手の少年はやんわりと掴む。
「で? 考えてくれた?」
 窓から差し込む光が、短く刈り上げられた髪に光を与える。細く少し垂れた眼は、なんとなく気弱さすら感じさせる。
 だがスポーツで鍛えられた身体は、たとえ聡よりは小さくとも、それなりに逞しい。
「君に迷惑をかけるようなことではないと思うけど」
 低い位置から見上げる瞳を、聡は一瞥してやる。
「大迷惑だよ」
 ポケットに両手を突っ込んだまま大股で歩き出そうとする。腕に添えられた手は、それを無理に制止しようとはしなかった。
 だが、聡の後ろをついてくる。
「どうして?」
 聡は答えない。
 ただ黙々と教室へ向かう。
 やがて少年は、諦めたように廊下の真ん中で足を止め、四組の教室へ姿を消す背中を見送った。その顔には、それほど落胆の色は見られない。
 その肩が、強く押される。
「ようっ!」
 だが、親し気な声とは裏腹に、その表情はどことなくネチっこい。
「悪いが今日の練習はパスだぜ。用事ができたんでな」
 一方的にそう告げると、少年の返答など待つこともなく教室へと姿を消した。
 少年は押された肩を軽く抑え眉をしかめた。だがそれは、ほんの(わず)かな時間。
 四組の教室から、先ほどの少年と入れ替わるようにして出てきた少女。ショートカットを揺らしてクラスメートを振り返り、そしてこちらへ顔を向けた。
 彼女と目が合い、短髪の少年は曖昧な笑顔を見せる。少女は軽く片手をあげて近づいてくる。
「気にするなって」
 男子のような言葉遣いに、少年は肩を竦める。
「気にしちゃいないさ」
 そんな二人へ意味深な視線を投げながら、二人の少女が通り過ぎていく。それは決して、好意的ではない。
「お前こそ………」
 彼女らの背中をやや睨みつけながら口を開いた少年の、だが言葉の先を少女が遮る。
「気にしちゃいないさ」
 彼女の口真似に、少年はプッと吹き出した。暗雲の垂れ込めた胸中に一筋の光が差し込んだようで、少年は少女に感謝した。
 そうして――――
 とうに姿を消した聡の後ろ姿を思い出し、決意をさらに強めたのだった。







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